庄内麸について
山形県庄内に伝わる板状の焼き麸
庄内麸は「板麸」を代表する麸として広く知られ、現在では全国で食されています。薄く延ばした生地を棒に巻き付け、直火で焼き上げ板状にした独特のもので、香ばしい素朴な味わいが幅広い料理と良く合うことから、一般家庭はもとより、料亭やレストランなど、和食を供するプロの現場でも長年にわたり愛されています。
近年では、高たんぱく低カロリーでヘルシーな食材として、またいざというときのための保存食としても注目されています。庄内で古くから受け継いだ製法で変わらない伝統の美味しい焼麸、それが庄内麸なのです。
庄内麸の歴史
庄内麸の生い立ちは、江戸時代、正徳年間(1711‐1716)ににさかのぼります。現在の酒田市の東に位置する松山藩に旅の六部がやってきて病に倒れ、それを松山藩士が助けたそうです。
その六部が焼麸の製造を指導したのが庄内麸のはじまりと伝えられています。当初は丸い筒型の車麸のような形だったそうで、以後、松山藩内では麩の製造が盛んに行われましたが、現在では旧松山地区で数件の庄内麩づくりが行われています。
そうした歴史ある庄内麸ですが、近代においていわゆる庄内の名産品として「庄内麸」「庄内焼麸」が知られるようになったのは、大正から昭和にかけての頃となります。大正14年、東宮殿下が酒田に行啓された時、酒田の大淵三五郎の庄内麸が御買上品の一つになり、知名度が高まりました。
その後、昭和に入ると、庄内の製麸業者が麸の本場である関西地域に進出、庄内麸の品質の良さが認められ、焼麸界の最高峰との呼び声が立つほどになりました。軍需品として注目されたりしながら国内外に販路が拡大し、現在の市場が作られるに至っています。
参考:荘内日報社 強度の先陣・先覚 「庄内焼麸」の名声高める 大淵三五郎(筆者・須藤良弘 氏)
その後、庄内麸は、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した北前船を介し、全国に広まりました。平べったい“板麸”の形は、北前船の交易が盛んだったころ、船に積みやすくかさばらないとの理由からで、このような形になったと言われています。
交易で渡った庄内麸は、品質の良さから各地で評判となりました。特に米どころ酒田から、庄内の米と一緒に多く運ばれた京都を中心とする関西方面では広く知れ渡り、今でも庄内麸の知名度が高い傾向となっています。